日・米・馬  家族とともに世界に雄飛する 前半

バーミリオンコンフェレンスセンター代表 長谷川斉氏

投資家/バーミリオンコンフェレンスセンター代表 長谷川斉氏
Investor / Chairman of Vermiljoen Conference Center Sdn. Bhd.:Hitoshi Hasegawa
THE KLインタビュー vol.2(前半)

 

東南アジアを拠点に活躍される経済人、事業家の人物像にせまるTHE KLインタビュー。第二弾のゲストに、2014年より東南アジアビジネスに着目し、現在KLに拠点を置く長谷川斉氏を迎えた。アメリカで弁護士として活躍、その後33歳で日本に帰国し、孫正義氏とともにネットバブル時代を駆け抜けた長谷川氏。世界を舞台にした数々のエピソード、東南アジアビジネスへの想いから子どもの教育までを聞き出す、長谷川斉氏×池田諭の軽快な対談が実現した。
(本記事は前半部分を掲載しております。)

 

 

 

東京は神田生まれ 礎は私立武蔵の「三大理想」

 

池田:お久しぶりです。その後、マレーシア生活はいかがですか?

長谷川氏(以下長谷川):ご無沙汰ですねえ。池田さんもお元気そうで。ご存じの通り、変わらず楽しんでいます。今朝は仕事も兼ねたゴルフに行ってきまして。今日行ったところも素晴らしいコースでしたよ。マレーシアのゴルフ環境は、想像以上にいいですね。

 

池田:そうだったんですね。ゴルフの後にKLCCまでお呼び出ししてしまって恐縮です。本日は長谷川さんがマレーシアにいらっしゃるまでのご経験や「ここだけの話」など、色々お聞きしたいと思います。まず、長谷川さんは学生時代のベースはアメリカということなんですが、当時はご家族でアメリカに?確かご出身は東京でしたか。

長谷川:私は、東京は神田、水道屋の長男として生まれましてね。教育熱心な両親のもと、生粋の江戸っ子として神田で育ちました。アメリカ行きを高校時代に決めたのは私自身でした。

 

池田:中学はあの私立武蔵に。

長谷川:はい、ご存じのとおり、学力レベルは高い学校ですから、勉強には苦労しましたが、非常に自由な学校で、制服も校則もなく、武蔵の「三大理想」に強い影響を受けることになります。

 

池田:「三大理想」?

長谷川:1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物  2. 世界に雄飛するにたえる人物  3. 自ら調べ自ら考える力ある人物。

私の人生の方向性を定めてくれたといってもよいでしょう。例えば、中学一年生の現代国語では変体仮名を学ぶことに1学期を費やし、生物では芋を育て、政治経済では植木枝盛の憲法草案について議論し、地理では古来の熊狩りについて古文書を読みました。大坪校長先生の数学の授業でもポーカーの手の確率と序列の検証をしました。
こうして、いろいろなアングルから、聞いて記憶するのではなく調べて考える癖がつきます。「なぜ」とか「やってみようぜ」とかが、同窓生の口癖になりました。

 

池田:おもしろいですね。そんな授業があるんですか。

長谷川:はい。先生からのご指導を通して、そして同級生からたくさん刺激を受けました。夏休みに海外に短期留学する者もいて。休み明けにアメリカの話を聞いて羨ましくて仕方がありませんでした。自分も行きたい、という想いが募り始めましたが、景気が悪く両親には学費をだす余裕がありませんでした。

 

池田:2度のオイルショックの頃、ですね。

長谷川:両親に頼らず、留学できる方法はないものか。そんな折、AFSという留学期間の試験の話を聞き、校長先生からも推薦をいただき合格しまして。1981年にシカゴのハイスクールに1年間留学することができました。これが「世界に雄飛する」最初のきっかけとなりました。

 

池田:80年初頭に高校2年生で単身アメリカに。一番大変だったことは何ですか?

長谷川:あはは、なんだと思います?ずばり、デートです(笑)。日本では男子校でしたから。レディファーストじゃなくて怒られたりもしましたよ。

 

 

 

東大受験失敗からの米国大学進学

 

長谷川:帰国して、受験への準備不足もあって結果2回東大受験に失敗しました。父の会社に報告に向かう途中、アメリカの大学に進学する希望がでてきました。純粋にもう一度アメリカに行きたいという気持ちと、重なる浪人生活から逃げたいという両方の気持ちがあったと思います。

 

池田:ご両親は賛成でしたか?

長谷川:1ドル250円の時代です。父の回答は「そんな資金はないよ。」でした。それでも、インターネットもない当時、出願できる大学を調べまくって願書を出しました。願いが叶って第一志望のミシガン大学に合格。そして両親も「取り合えず行ってみろ。」と背中を押してくれました。

 

池田:大学の費用はその後も心配だったのでは?

長谷川:1986年の入学直前ですか、プラザ合意が結ばれて。みるみるうちに円高が加速しました。1学期終わる頃には1ドル150円ですよ。留学費用が、当初の4割引きくらいになったんです。日本もちょうどバブル経済へ突入していく時代でした。それでも費用を抑えるため、エコノミーダブル(1人部屋に2段ベッドを置いた2人用の部屋)という小さな部屋に入って。

単身渡米で、言葉の壁に、アメリカの大学ですから勉強量は膨大で。そんな中、寮の友人とともにPi Kappa Phiというフラタニティー(社交クラブ)に入会し、大学生活の中心になるほど楽しい時間を過ごしました。フラタニティーの仲間とは今でも付き合いを続けています。

弁護士を目指すことになったのも、フラタニティーの友人らがロースクールを受験すると聞いたことがきっかけです。テストの結果は意外にも良好で、ミネソタ大学をはじめ、数校から入学許可を頂戴しました。

 

 

 

2年次就職活動スタート、同時にやってきた不況

 

長谷川:それでね、ここからがもう大変で。とにかくロースクール最初の1年はボロボロでした。

 

池田:長谷川さんがですか!?

長谷川きつくてきつくて、もう二度とやりたくないです(苦笑)。テストなんかは、制限時間4時間、問題は2問。解答は「用紙」ではなくて、ノート2冊に書くんです。予習もものすごい量でした。1コマ、30ページくらいの判例を読まなくてはいけないのですが、3コマあると100ページですよ。毎日毎日。英語も難解でチンプンカンプンでした。
そして、なんとか1年次を終えて。  2年の新学期開始の9月に、就職活動をスタートするはずでした。

 

池田:2年生で実質的な就職活動ですか。

長谷川:はい。スタートできればよかったんですが。このタイミングで来たんです、不況。弁護士業界が不況に弱いなんて知りませんでした。面談を予定していた大手法律事務所の6割以上からキャンセルされました。その後も、全米250の法律事務所に書類を送付しましたが、どれも合格までは進むことはありませんでした。

本当に苦労しまして。冬になって、人もいない就職斡旋課にいたところ、ロースクール全体で1位だった奴が僕をみつけて「なんだ、お前まだ仕事探してんのか。」と。これには、一瞬キレそうになりました。が、話をしているうちに、彼の友人でシカゴの日本企業を専門にしている法律事務所の採用担当が、日本語の話せる学生を探しているという展開に。

 

池田:そんなイヤな奴が、救いの手を?!

長谷川:もう、もらった電話番号を握りしめ、地下の公衆電話に走り、電話しました。そして話をし、住所を伝えて。必死でした。そして、インターンのポジションも本採用も増田・舟井・アイファート&ミッチェルという法律事務所に頂戴しまして。無事ロースクールの最後の1年間に臨むことができました。その頃、医学部の友人のところに遊びに来ていた日本人の女医を紹介されまして。

 

池田:奥様ですね。

長谷川:はい、会った瞬間に「これだ」と思いました。

 

 

 

「このまま家族と米国で一生暮らすのだろうか?」

 

池田:いよいよ私生活も順風満帆で。

長谷川:その後無事司法試験にも合格し、イリノイ州の弁護士になりました。それから2年目が終わる頃には、簡単な契約書の交渉は一人で出来るようになっていました。比較的多くの案件をこなせるようになり、銀行からの依頼も増えるようになっていました。そんな中、私たちの遠距離関係も終わり、1994年の1月にめでたくゴールインし東京で式を挙げました。

ところが、シカゴに戻り、ちょうど式を挙げて2か月後に、父が肝臓ガンだという辛い知らせが届きました。当時57歳。余命は約1年半と宣告されましたが、摘出手術を受け結果7年間追加の人生を頂戴しました。その間に初孫となる長女も生まれ、妻も現地での生活になれ、僕の仕事も順調に進んでいました。

 

池田:日本のご家族のことも気にかけながら、自分の拠点であるアメリカでの生活も安定してきたと。

長谷川:事務所も移りながら、仕事は順調にこなし、評価も悪くありませんでした。順調にパートナーの道を歩めていると、それを聞いてある日、報酬が上がる日を想定して妻と家探しに行きました。いろいろな家を見て、ローンの試算をし、家具の予算を見たり。その時にふと考えたのが、「父もあまり長くないだろう。娘も大きくなる。自分はこのままアメリカでキャリアを積みたいのか。娘の教育はアメリカで良いのか。」と。そして、日本に帰りたい、という想いに。

 

池田:人生の選択、ですね。

長谷川:当時33歳でしたので、まだまだ日本でのキャリアを始められると思い、日本に帰る決心をしました。ところが、日本に帰って、何をするのか。日本に帰っても法律実務の仕事はできない。アメリカの資格ですからね。それで、プライベートでもお世話になっていたある先生に、僕の日本での可能性について、相談させていただきました。その後、「日本の企業で働いてみるか。」とお話をいただき。

 

池田:日本の企業は、初めてですよね。

長谷川:そう。なので僕も向いていないのではないか、とお話しましたが、「日本の企業と言っても、ソフトバンクだ。君に会ってくれるそうだ。」驚きました。風雲児孫正義の名前はアメリカにも届いていましたから。もう、二つ返事で「お願いします」とこたえました。

 

 

 

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後半に続く。(THE KL)

長谷川斉氏 THE KLインタビュー vol.2 (後半) 記事はコチラ 》

 

■長谷川斉氏プロフィール■
元株式会社Vermilion会長。2016年11月までVermilion Capital Management株式会社代表取締役。2005年から2008年まで、株式会社クリード代表取締役を務めた。それ以前は、ローン・スター・ジャパ ン・アクイジッションズにおいて企業及び不動産投資案件のオリジネーションに関与。カーライル・グループではマネージング・ディレクターとして、ベンチャー企業への投資及びマネジメント業務に従事した。また、モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所においては、パートナーとして様々なM&A、戦略的提携、企業投資、ジョイント・ベンチャーに関して クライアント企業の代理を務めたほか、ソフトバンク株式会社ではマネージング・ディレクター兼ゼネラル・カウンセルとして様々な投資案件に関与した。ミシガン大学教養学部卒業(経済学専攻)、ミネソタ大学ロースクールにてJuris Doctorを取得。